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東京高等裁判所 昭和60年(う)1389号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役二年に処する。

原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入する。

この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予する。

原審及び当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人茂見義勝、同兼子徹夫、同海老原茂が連名で提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、東京高等検察庁検察官検事土本武司が提出した答弁書にそれぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

控訴趣意中事実誤認の主張について

(一)  正当防衛ないし過剰防衛の主張について

論旨は、要するに、(イ)被告人は、仰向けに倒れていた被害者Aの腹部を右足で一回踏みつけただけであり、その際右足を「約五〇センチメートルの高さにまで上げ」たことはなく、せいぜい地上三〇センチメートルに上げただけで、被害者の身体の厚みを差し引けば約一〇センチメートルの高さから踏みつけたにすぎず、また、被告人が「その足に全体重をかけて二、三秒間踏みつけ」たことも、「唸り声をあげて苦しがる被害者に対し、右足でその右耳から頭あたりを踏みつけ、腹部を一回蹴りつけ」たこともないから、これらの点において原判決には審理不尽及び事実の誤認がある、(ロ)医師B作成の鑑定書によれば、被害者の死因は、十二指腸破裂創、膵臓破裂創、横行結腸間膜裂創、腸間膜裂創、右腎傍脂肪体打撲傷、肝臓断面実質破裂創という腹腔内臓破裂による出血であり、特に膵臓破裂、横行結腸間膜・腸間膜裂創、肝臓・十二指腸破裂創は腹腔内に約一七五〇ccの出血量を伴う出血死となつた致命傷であつたというのであるが、これらの各臓器の創傷は、ゴム長靴の底面よりはるかに広い範囲にわたり六か所も存在し、力の加えられた部位や方向も一定していないから、一回のゴム長靴による踏みつけによつて生じたものでないことは明らかであり、その大部分は被告人が被害者から模造刀を取り上げようとしてもみ合つた際に被害者の脇腹を何回となく蹴りつけた行為によつて生じたものであるのに、原判決が右の致命傷がいずれも専らゴム長靴履きのまま一回踏みつけた行為によつて生じたものであると認定したのは事実を誤認したものである、(ハ)被告人は、原判決の認定した正当防衛行為により被害者から模造刀を取り上げたのちも、被害者のそれまでの加害行為に対する憤激を制御しきれないままゴム長靴履きでただ一回その腹部を踏みつけたものであるが、専ら被害者に対する報復措置として右暴行を加えたものではなく、右行為の当時、被告人はなお防衛の意思を有していたのであるから、被告人の本件所為は正当防衛ないし過剰防衛と評価すべきであるのに、原判決が防衛の意思を欠くなどの理由でこれを認めなかつたのは事実を誤認したものである、これらの誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して、まず(イ)の点につき検討すると、被告人は、検察官に対する昭和六〇年三月二五日付及び同月二七日付の各供述調書で、被告人が被害者Aから模造刀を取り上げたのち、被害者が仰向けに倒れていて被告人に向かつてくる気配が全くなかつたのに、腹立ちの余り仕返しに痛めつけて自分の気を晴らそうと思い、ゴム長靴履きのままの右足を約五〇センチメートルの高さにまで上げ、そこから力一杯被害者の腹部めがけて踏みつけるようにして蹴つたうえ、その足に体重をかけて踏みつけたので被害者は「ウー」とうなり声をあげた、折からCが間に入つたため二、三秒間で踏みつけるのをやめたが、被害者は身体を東に向けて左側を下にし、「ウーン」とうなり身体を動かし痛がつていたのに、まだ気が治まらず右足で被害者の右耳から頭あたりを二、三秒間踏みつけ、「こんなことしやがつて」と怒鳴つたうえ、さらに右足でその腹部を一回蹴つた旨、原判決の認定に適合する詳細な供述をしている。なるほど、被告人の司法警察員に対する同月一九日付供述調書においては、被告人が被害者の腹部を踏みつけた際の右足の高さは約三〇センチメートルとあり(なお同日にした実況見分(証拠等関係カード検察官請求甲番号2)で被告人がした指示説明における右足の高さは約三五センチメートルであつた。)、また、右踏みつけ行為後の暴行についてはなんらの記載もないけれども、右足の高さについては、被告人は右供述以前の同月一三日付の司法警察員に対する供述調書で、約五〇センチメートル位の高さから力一杯踏みつけた旨供述していたのであつて、これらの被告人の捜査官に対する供述状況を検討すると、右の点につき、被告人が地上約五〇センチメートルの高さに右足を上げたうえ、被害者の腹部を踏みつけるようにして蹴つたものと認定するに十分である。また、腹部の踏みつけ行為後における被告人の前示暴行の事実については、医師B作成の鑑定書の記載がこれを裏付けているほか、犯行を目撃したDの検察官に対する同月二二日付、二七日付の各供述調書により、右踏みつけ行為後被告人が東側を向いて横向きに倒れていた被害者の腹を右足で一回蹴つた事実が、また同じく犯行を目撃したEの検察官に対する同月二二日付、二六日付の各供述調書により、右踏みつけ行為後被告人が被害者の右耳から頭あたりを右足で二、三秒間踏みつけた事実が、さらに同じく犯行を目撃したFの検察官に対する同月二三日付供述調書により、右踏みつけ行為及びその後被告人が原判示のとおり一連の暴行を加えた事実がそれぞれ裏付けられ、これらの証拠と前示被告人の検察官に対する自白調書等を併せ検討すると、原判示罪となるべき事実中の暴行の事実を十分に認定することができるから、この点に関して原判決に所論の事実誤認は認められず、また、原裁判所に審理を尽くさなかつた違法があるとも認められない。

次に(ロ)の点につき検討すると、被害者の死因及び死亡の原因となつた致命傷は、医師B作成の鑑定書及び当審で取り調べた医師Bに対する証人尋問調書によれば、前掲所論の指摘するとおりであり、いずれも極めて重傷であると認められる。そして右鑑定書及び証人尋問調書並びにBの検察官に対する同月二五日付供述調書を総合すると、右致命傷となる損傷を受けた各臓器は人間の体内において、このほか右腎傍脂肪体をも含め比較的重なりあつた位置にあること、また、膵臓、肝臓及び致命傷ではないが右腎傍脂肪体などの実質性臓器に裂創、出血を起こし、十二指腸などに裂創を伴つていること、右上腹部に原判示(判決書一四丁)の打撲傷があり、右腹直筋間などに厚層の出血を伴つているものの、腹壁外景にはほとんど損傷がないことが認められ、これらのことから、右各臓器の損傷は、原判示のように、表面平滑な重量のある鈍体が直達性に右上腹部に急速に強い圧力として作用した結果、脊椎や筋肉などがあつて比較的固い背中と右鈍体との間にそれらの臓器が挾まれ、腹圧も作用して圧迫されて生じたものと推定される。そして、被害者が受傷した経緯、とくに被告人が被害者から模造刀を取り上げたのち、前記のように被害者の腹部を踏みつけた際、被害者がうなり声を上げて苦しみ出したこと、本件当時被告人は体重約七二キログラムの屈強な男子であつたことなどに徴すると、これらの損傷は、少なくともその主要部分において、被告人が被害者から模造刀を取り上げようとして揉み合つた際被害者の右脇腹を蹴りつけた行為によつて生じたものではなく、その後同人の腹部をゴム長靴履きのままの右足で力一杯踏みつけるようにして蹴り、そのうえ二、三秒間その足に体重をかけて踏みつけた行為によつて生じたものと認めるのが相当である。なお当審で取り調べた証人Gは、一回だけの踏みつけ行為によつては前記のような広汎な各損傷は通常生じない旨供述するが、他方で足の裏全体に力が及ぶような踏みつけ方をすればできないわけではないとも供述しているのであり、また、前記当審証人Bは、被告人が本件当時着用していたゴム長靴による一回の踏みつけによつても、その底面積より広い範囲の臓器に損傷を及ぼすことがある旨供述しているのであつて、これらの専門家の意見を勘案しても、前示のように認定することができるというべきである。したがつて、これと同旨の原判決の認定に事実の誤認は認められない。なお、仮に本件被害者の蒙つた損傷中に一部原判決が正当防衛と認めた行為に起因するものがあつたとしても、前示のとおり、同人の死因となつた重大な損傷は防衛行為終了後の前示の踏みつけ行為によつて生じたものと認められる以上、被告人の右踏みつけによる所為が傷害致死罪に該当することは明らかである。原判決に所論の事実誤認は認められない。

最後に(ハ)の点につき検討すると、原判決挙示の関係証拠、特に本件犯行を目撃したC及び同Fの検察官に対する各供述調書によれば、原判決が、認定説示するように、被害者は、被告人から模造刀を取り上げられたのちは、地面に仰向けに倒れたままで、もはや被告人に向かつて行く気配を全く示していなかつたことが認められ、被告人自身も、捜査段階で、被害者から模造刀を取り上げてそれが模造刀とわかつたこと、被害者が仰向けに倒れており、向かつてくる気配など全くなかつたが、模造刀を持ち出してきたことなどに腹を立て、仕返しに痛めつけてやろうと考えて前記踏みつけ行為に及んだ旨供述し、原審公判廷においてもこれと異なる供述はしていないのである。そうすると、被害者が当初被告人に対し急迫不正の侵害に及んだものであるとはいえ、被告人の防衛行為によりすでに地上に倒れ攻撃する気配の全くなくなつた被害者に対し、原判決が認定しているように、右足を上げてその腹部めがけて力一杯踏みつけるようにして蹴り、その足に全体重をかけて二、三秒間踏みつけ、さらにうなり声をあげて苦しがる同人に対し、その右耳から頭あたりを踏みつけ、腹部を一回蹴りつけるという暴行を加えた行為は、客観的にみて到底防衛のための行為ということはできない。また、相手の加害行為に対し憤激または逆上して反撃を加えたからといつて、直ちに防衛の意思を欠くものと解すべきではないことは所論のとおりであるが(最高裁判所昭和四六年一一月一六日第三小法廷判決)、被告人は、もはや被害者が攻撃してくる気配の全くないことを認識しながら、仕返しに痛めつけてやろうという意思で原判示の暴行に出たものと認められるから、模造刀を取り上げたのちは、防衛の意思は全くなく、専ら被害者に対する腹いせないし報復の意思で暴行を加えたものと認めるほかはない。したがつて、被告人の原判示罪となるべき事実の所為について正当防衛ないし過剰防衛を認めなかつた原判断は正当であり、この点に関し原判決に所論の事実誤認は認められず、また、法律適用の誤りがあるとも認められない。論旨はすべて理由がない。

(二)  因果関係不存在の主張について

論旨は、要するに、被害者Aが死亡したのは、その治療にあたつた医師Hが、(イ)被害者が十分な輸血、補液を必要とする腹腔内臓器合併損傷を負つていたのに、早期に十分な輸血、補液をなすことを怠り、(ロ)損傷の部位について誤診し、局所麻酔の方法で開腹手術をして患者の手術侵襲ならびに精神的負担を増大させ、(ハ)十二指腸の裂創を縫合しただけで、その他の腹腔内臓器の出血損傷について止血措置を施さず放置したという重大な過失を犯したことによるものであるから、被告人の暴行と被害者の死亡との間には因果関係がないのに、これを認めた原判決には事実の誤認があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討すると、すでに(一)で判断したように、被告人の前記踏みつけ行為により被害者は前示致命傷となつた膵臓破裂、十二指腸破裂等の創傷を負い、それらの創傷はいずれも極めて重傷であつて、その創傷からの出血により被害者が死亡したことが認められる。すなわち、本件において被告人の右暴行による傷害が被害者の死亡を引き起こしたものであることは明白である。しかも、人が右のような重傷を負つたときは、放置すれば確実に死に至ることはもちろん、適時適切な治療措置を受けたとしても、多くの場合死を免れないものであることが認められる。そして、本件のように不慮の事故により重傷を負つた場合に、いつどこでも遅滞なく完全無欠、理想的な救急医療措置を受けられるものではないことも、公知の事実である。そうしてみると、本件暴行終了時において、本件被害者の死亡の結果の生じうることは、経験則上十分予想することが可能であつたというべきである。したがつて、本件において、被害者が受傷後四時間近くを経過して救急車で○△厚生病院に運び込まれ、しかも治療に当たつたH医師に対し胃けいれんであると虚偽の訴えをしたことが認められるのではあるが、また、かりに同医師のとつた措置になんらかの過誤が存したとしても、その措置が現在の通常の医療技術水準ないし医療上の常識から甚だしく隔たつた異常なものであつたために被害者の状態を悪化させ死亡するに至らせたというような特段の事情が認められない限り、本件暴行による傷害と死亡との間には刑法上の因果関係があると認めるのが相当である。右の見地に立ち、所論にかんがみ検討してみても、本件被害者の治療に当たつたH医師の診断及び手術を含む措置が極めて不適当で右のように異常なものであつたとは認められず、右特段の事情は認められないから、右の因果関係があるというべきであつて、この点に関する原判決の説示も正当である。以下所論の具体的主張について判断を示すこととする。

1 まず、(イ)の点につき検討すると、関係証拠によれば、本件被害者の治療に当たつたH医師は、収容された被害者から胃けいれんとの訴えを聴取したことから、急性腹症と一応診断したものの、被害者は全体に生気がなく緊張し張つている腹部の強い痛みを訴え、血圧は上が一〇〇、下が六二、脈拍も六六であつたことなどから、胃か腸の穿孔あるいは腹腔内臓器の破裂・出血を疑い、心電図、心機図をとり、腹部レントゲン撮影、腹部エコー検査を行い、鎮痛薬を注射し酸素吸入の措置をとり、さらにそれらの検査結果や「けんかをして腹を蹴られた」という被害者の妻の話を看護婦から聞いたことなどから、腹腔内臓器の破裂・出血の疑いを強く持つたものの、レントゲン撮影、エコー検査の結果からは腹部の痛みの原因が腹腔内臓器の出血と明確に診断できる状況になく、腹腔内臓器の出血という診断がつかない単なる疑いの段階で大量に輸血することは心臓の負担を重くして患者の全身状態のいかんによつてはかえつて危険な場合があり、輸血や補液の投与時期及びその量は個々の患者の全身状態に応じた個別的、具体的な判断を要するところ、各種検査の結果や所見によれば、被害者は脈も微弱で血圧も上が一〇〇以下というショック状態にあつたため、まず被害者の全身状態の回復を図ることとしてブドウ糖液、昇圧剤、強心剤、ビタミン剤、止血剤、ラクトリンゲル等を点滴投与し、さらに適宜血液代償液などの補液を点滴し、輸血をもしながら被害者の全身状態の回復を図り手術に適応する時期を待つという措置をとつたことが認められる。右の事実によると、当審証人Gの供述を参照すれば、被害者が腹腔内臓器の出血により死亡したという結果からみる限り、輸血の投与時期についてはもつと早くなされることが望ましかつたとも考えられ、またその投与量についても、もつと多量になされるべきであつたと考えられないわけではないが、その投与時期及び量が医学的にみて明らかに不適当であつたと断定することはできず、右の措置が著しく不当な治療行為であつたということはできないというべきである。

2 次に(ロ)の点につき検討すると、H医師のした診断は上記のとおりであつて、特段の過誤、遅滞があつたとは認められない。そして、本件被害者のように、収容時から全身状態の悪いショック状態にある患者に対する開腹手術については、分科し専門化した現代医学のもとでは、麻酔専門医と必要な器具を備えた病院で、同専門医が関与したうえ全身麻酔法で手術するのが適当であり、望ましいとされていることが認められるが、本件当時の医療設備・施設等に関する具体的状況を関係証拠により検討すると、本件○△厚生病院は救急指定病院であるものの、麻酔専門医とそのための設備のない病院であり、そうであれば、H医師は、被害者を速やかに麻酔専門医と設備のある大病院に搬送する措置をとることが望ましかつたと一応いえるけれども、本件当時近辺でそれらの人員と設備のある自治医科大学、独協医科大学の各付属病院及び国立栃木病院においては医師からの依頼とともに空きベッドがあることの確認がないと救急患者を受け入れない態勢をとつており、また宇都宮市内にある宇都宮済生会病院付属の栃木県立救急救命センター、足利市、真岡市、大田原市にある赤十字病院は救急患者を受け入れているものの、小山から宇都宮市までは車でも四〇分程度はかかる等の事情の存したことが認められるうえ、被害者のように全身状態の悪い患者を搬送移動すること自体が危険を伴うことをも考慮すると、このような地域における救急医療体制のもとで、被害者をそれらの病院に搬送して全身麻酔法による開腹手術を依頼しなかつた点をとらえて不適切な措置であつたとまでいうことはできない。まして、緊急の場合の腹部の手術に局所麻酔法が一般的に許されないものではなく、安全性の観点からはむしろ適切であるという見方もあり、麻酔法の選択は麻酔を施す医師の経験によつても異なる面があつて、戦前ないし戦中に医学教育を受けたH医師が、被害者の全身状態を観察しつつ緊急の救命的な手術として局所麻酔法で開腹手術をしたことにはそれなりの理由があるものと認められることを考慮すると、同医師の右措置が不適切であつたということもできない。

3 さらに(ハ)の点につき検討すると、H医師は、十二指腸の裂創を結紮縫合し、また膵臓破裂創の周辺の後腹膜付近、横行結腸間膜及び腸間膜に手術的な操作による切開及び結紮縫合の止血措置を施したが、膵臓自体はもともと縫合が困難な臓器で、しかもその裂創が不正形で完全な縫合ができないため結紮縫合による止血措置を施さなかつたものの、ガーゼを詰めて出血部を止血するタンポン止血を行い、あるいは止血剤を投与するなどしたものであつて、同医師が十二指腸の裂創を縫合しただけでその他の臓器の止血措置を全く施さずに放置したとは認められない。所論は、医師B作成の鑑定書に、「十二指腸膨大部前壁に約一・五糎大の裂創を存し手術的に縫合閉鎖されている」との記述があり、その他の受傷部位について医師の緊急処置のなされた旨の記述がない点をとらえ、十二指腸の右縫合以外にはなんらの応急的措置がとられなかつたと主張するが、当審証人B医師の証言によれば、同医師は、前記の膵臓破裂創の周辺後腹膜付近、横行結腸間膜及び腸間膜に施された結紮縫合の止血措置の点を鑑定書に記載しなかつたのは、それらが手術的な操作による切開とその結紮縫合の処置であると理解し、これと外傷によることの明らかな十二指腸の裂創を結紮縫合した処置とは異なると考えたことによるというのであり、右証言は十分に信用できるのであつて、所論は失当である。

以上のような被害者の受けた創傷及び身体の状態、H医師の置かれた立場、同医師が具体的にとつた措置等を勘案すると、前示のとおり、本件被害者に関し同医師のとつた措置が現在の医療技術の水準、医療上の常識から甚だしく隔たる異常なものであつたとは到底認められない。なお、当審証人Gは、H医師のとつた措置は不適切であり、同医師が経時的臨床診断を怠らず、適切な治療措置をとつていれば、被害者はその一命をとりとめ得た可能性がある、すなわち、腹腔内出血、臓器複合損傷の診断を収容後二時間以内にすることができたはずであり、その診断が遅れたため輸血、補液の時期が遅れ、その量も甚だしく不足していた、さらに手術において十分な止血措置がとられていない旨供述するが、同証人は法医学者として豊富な経験を有するものの、救急医療の専門家ではないのであつて、前示のとおり本件被害者の治療に当たつたのは個人病院であり、同人の全身状態が悪く、開腹手術の適応についても困難かつ慎重な検討を要する病態であつて、H医師としては当面救命的応急的な手術を実施するにとどめざるを得なかつた事情及び被害者の死体を解剖し鑑定書を作成した医師Bが、右G証人の意見と異なり、H医師の措置が不適切であつたとはいえない旨の詳細な意見を述べている点などを総合して考察すると、G証言のようにしかく簡単にH医師の措置が不適切であつたと断定することはできず、右証言の内容を十分勘案してみても、これが前示の判断を左右するものではないというべきである。したがつて、被告人の前示暴行による傷害と被害者の死亡との間には刑法上の因果関係に欠けるところがないのであつて、これを認めた原判断は正当であり、原判決に所論のような事実の誤認は認められず、また、法律適用の誤りがあるとも認められない。論旨は理由がない。

控訴趣意中量刑不当の主張について

論旨は、要するに、被告人に対し懲役二年の実刑を言い渡した原判決の量刑は重過ぎて不当であり、刑の執行を猶予すべきであるというのである。

そこで、原審記録を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して検討すると、本件犯行に至る経緯及び罪となるべき事実は原判決が詳細に判示するとおりであつて、その犯行は罪質自体からみてすでに重大である。被告人は、被害者の模造刀による不法な攻撃から自分の身を守るため反撃してこれが奏功したのに、なお被害者に対する立腹が晴れず、興奮にかられるまま、地面に倒れてもはや攻撃してくる気配を全く示していない無抵抗の被害者に対し、専ら報復する意思で、その腹部めがけて踏みつけるようにして蹴つたうえ、その足に全体重をかけて二、三秒間踏みつけるなどの強烈な暴行を加えて被害者に重傷を負わせ死亡するに至らせたもので、犯行の態様が粗暴かつ極めて危険なものであること、犯行後、苦悶している被害者をその自宅に運び入れたものの、救急車を呼ぶなどの措置をとることもなく現場を離れるという挙に出ていること、その後被害者に長時間強い苦痛を与えたあげく、その生命を失うに至らせたという結果の重大性等にかんがみても、犯情は悪質というほかはない。また、本件が被告人の短気で激しやすい性格に起因する犯行と認められること、被告人がこれまで暴力団員と交際を持ち、昭和五一年に傷害罪で罰金六万円に処せられ、同五四年に業務上過失傷害、道交法違反(酒酔い運転)の各罪で懲役七月の実刑に処せられるという芳しくない経歴ないし前科を有すること、本件により四三歳で働き盛りの一家の支柱を失つた被害者の遺族らの悲しみは深く、原審当時被告人との間に後記の調停が成立したものの、依然として被害感情が強かつたことなどを考え併せると、被告人の刑責はまことに重いというべきである。そうすると、原判決が説示するように、被害者が被告人に悪口雑言を吐いてけんかを挑発し、被告人の車のエンジンキーを持ち去るといういやがらせをし、被告人がこれを取り返しに被害者宅へ行くと、いきなり模造刀を持ち出し、これを頭上で抜きかけて切りかかるような気勢を示すなどの行為に出たことが被告人の本件犯行を誘発したという点で、被害者にも相当の落ち度があると認められること、本件は激情にかられた偶発的犯行と認められ、もとより被告人は被害者の死亡という重大な結果を予想していたものではないこと、本件公訴事実のうち被告人が被害者から模造刀を取り上げるまでの行為は、すでに原審において正当防衛と認定され、検察官もこの認定に不服を申し立てていないのであつて、原判示罪となるべき事実はこれに引き続く行為のみを内容とするものであること、原審段階において被害者の遺族との間で本件による損害賠償金として三五〇〇万を支払う内容の調停が成立し、原判決までに内金五〇〇万円が支払われたこと、被告人は本件を深く反省し改悛していること、被告人は有限会社〇〇の代表取締役として真面目に生活していることなど、原審当時に存した被告人に有利な一切の事情を斟酌しても、原判決言渡しの時点を基準とする限り、被告人に対し、傷害致死罪の法定刑の最下限である懲役二年を言い渡した原判決の量刑が重過ぎて不当であるとは認められない。

しかしながら、当審における事実の取調べの結果によると、被告人は、原判決後、前示調停に基づく損害賠償金の支払い残額である三〇〇〇万円の支払いを完了し、本件に関する反省の情を一段と深めていることが認められるうえ、当審において、被害者の妻作成の「被告人につき法の許す最も恩情ある判決をし、十分更生の機会を与えられたい」旨を記載した裁判所宛上申書が提出されたことが認められる。そして、これらの原判決後に新たに生じた事情をも勘案したうえ本件の情状を総合して考察し、被告人の量刑につき、現在の時点で改めて検討してみると、被告人については、とくにその刑の執行を猶予し、自力による更生を期することが相当であるものと思料され、原判決を破棄しなければ明らかに正義に反するものと認められる。

よつて刑訴法三九七条二項により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により被告事件につきさらに判決することとし、原判決が認定した罪となるべき事実に、その挙示する法条を適用し、所定刑期の範囲内で、被告人を懲役二年に処し、刑法二一条により、原審における未決勾留日数中六〇日を右刑に算入し、刑法二五条一項により、この裁判の確定した日から四年間右刑の執行を猶予し、刑訴法一八一条一項本文により、原審及び当審における訴訟費用は全部被告人に負担させることとして、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官小野慶二 裁判官坂井智 裁判官安藤正博)

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